ミニリン
俺は猫が大好きである。でも、飼えない。
「犬派と猫派、どっち?」と聞かれたら、俺は即座に猫派である。まあ、犬もかわいくないことはないんだけど、どうも犬のあの媚びたところが気に食わない。それにくらべて、猫は気高い。自分の主人は自分しかいない、と悟りきっている猫の態度は、潔いものを感じる。俺も、そうでありたいと、いつも願っているのだから。
しかし、こんなに猫好きな俺が、猫を飼ったことは一度しかない。いや、別に猫アレルギーとか、そういうことではない。理由は「もし、俺が猫だったら人間なんかに飼われたくない」と思うからだ。そりゃ、飼い猫ってのは楽である。飯の心配はないし、糞の世話まで人間がしてくれる。しかし、その引き換えの代償はあまりに大きい。自分の自由が失われる、ということだからだ。もちろん、自由には、いい面と悪い面がある。何するのも自由、という面は確かに誰もが憧れるが、同時に、食えなくて飢え死にしてしまうかもしれない、という自由を併せ持っている。自由を選択するということは、同時にあらゆる責任を他人任せにしない、ってことだ。俺は飢える可能性があろうが、自由を選ぶ。もうそれは、俺の生き方、そのものであるのだから。
その唯一の例外といえる猫を飼った経験というのは、同棲していた女が猫好きだったからだ。彼女は3匹の猫を飼っていた。その中で、どうも俺のことを主人というか、一番の友達と思っていた猫がいた。名前をミニリンという。黒い小柄な猫なのだけど、頭がバツグンにいい。別に教えもしないのに芸のようなことをするし、俺が寝ていたら、すぐに上に乗ってくる。それに、家に帰ったときが大変だ。マンションのドアを開けるときには、いつもあらかじめダンボールでブロックしておかなくてはいけない。ドアを開けると必ず、ドン、という音がする。ミニリンだ。ミニリンにとって部屋で飼われているのは、我慢ができないことだったのであろう。部屋の外を思い切り走ってみたい。ミニリンも、やはり俺と同じく、自由を求める猫だったのだろう。
なんで俺が同棲していた女と別れたかというと、まあ、理由はいくつかあるのだが、彼女が「ミニリンを去勢する」と言い出したからだ。去勢された猫なんてのは、猫ではない。それに、人間の都合だけで、その子孫を作る能力を奪うというのは、絶望的にエゴである。俺は、せめて俺と一緒に住んでいるときは、ミニリンにそんなひどい仕打ちをしないで欲しい、と頼んだ。
もうそれから15年が経っている。多分、今頃は、ミニリンは天国にいるのだろう。今、俺の手元に、一匹の猫のマスコット人形がある。同棲していた女と別れたときに、くすねておいたものだ。俺はこれを、彼女の思い出、というより、ミニリンの思い出として持っている。
もし、俺の嫁になりたい、って女がいたら、そのへんはよく考えておくように。