複雑学系的AI論 
『複雑学系的AI論』(ふくざつがくけいてきえいあいろん)とは、複雑学系におけるAIの考え方である。
AIの定義 
- 複雑学系におけるAIの定義とは「知的生命体の認識、思考過程をプログラム化したもの」である。プログラムとして実際に動かないと何の意味もない。
- すなわちAIを実装したモノは知的生命体として扱わなければならない。
記号着地問題 
人間は「犬」を認識するときどのような思考過程を辿るか?
- 向こうから50cmぐらいの物体が近づいてきた
- 毛むくじゃらだ。どうやら動物らしい。
- 四つ足で歩いている
- 「ワン」と鳴いた。
- この物体は自分の知っている「犬」の属性を8割以上満たしている。
- この物体が「犬ではない」という理由は見つからない。
- この物体は「犬」だろう。
おそらくこのような思考過程を辿って「犬」を認識する。ここで注意しなければいけないことは「犬の属性を8割以上満たしたから犬」と認識しているわけで、その物体が本当に犬かどうかは認識できない。イデア論、クオリア論などを真剣に考えている人がいるが、複雑学系からすれば「そんなのイデアやクオリアが存在すると考えている前提が間違っている」というしかない。
記号着地問題がことさら難しいように考えられてきたのは「犬の絶対的な本質とは何か」という点を考えすぎた所にある。現実に存在する物はすべて「相対的」なのである。自分という観察者がいて犬の属性を8割以上満たした物体があるからこそ、「犬」を認識できるわけで、絶対的な犬が存在するかどうかは不可知である。認識なんて結構いい加減なものである。
そう考えていくと記号着地問題とは、単にその物体(もっと広げて言うと「概念」)とその属性を定義したデータベースを持てばいいということになる。後はその属性をどれぐらい満たしたかという割合を判定すれば、記号が着地する。それだけのことである。*1
フレーム問題 
人間はフレーム問題を解決していない。だからフレーム問題をことさら考えるのはある意味無駄である。
人間はほぼ起こる可能性のないものは、元から枝刈して物事を処理している。枝刈された事象が起こったときは「想定外」「事故」というのであって、もし人間が完全にフレーム問題を処理しているのなら「事故」などというのは起こりようがない。だから人間はフレーム問題を解決していない。
もちろん人間が物事の処理する場合は、ある程度の個数(普通5個以内。多くても10個ぐらい?)の事象を同時に把握している。この中から特に重要な2~3個の事象の関係性をリアルタイムで把握する。これならば3!(3×2×1=6通り)の未来を予想すれば済むので、組み合わせの爆発は起こらない。通常、人間の事象処理などというのはこの程度のものである。なんで無限×無限の組み合わせなどと言い出したのか、理解に苦しむ。
ああ、どうやって「特に重要な2~3個の事象」を選び出すんだ、そこも無限だろ?って疑問があると思う。
人間に限らず動物の事象処理プログラムは「危機回避」が最優先である。だから「目に見えて大きくなるもの」「段々音が大きくなるもの」に注意がいくようになっている。もしそのようなモノがないときは「目立つもの」(見えやすい、聞きやすいモノ)に注意がいく。その中から危機判定(自分の身に危険が降りかかる割合が8割以上か)を行い、危機がないと判定すれば、それ以外の処理を行う。これは動物として生存するための本能(ハードコーディングされたプログラム)であり、それがない動物は生存することが難しい。
次に「腹が減ってないか」「眠くないか」「尿意、便意はないか」などの生存本能を満たす処理が続き、それもなければしたいことをする。
ここらあたりは実際にプログラムを組んでみないと分からないが、別段フレーム問題が発生するようなことはなさそうである。処理し切れなかったら最悪「事故」が起こるだけなのだから。*2
思考の本質 
思考とは「言葉遊び」である。思考とは単に言葉を操作(演繹、帰納)しているに過ぎない。たまたまそれが外部の現象を一致したときは「発見」と呼ばれる。また言葉をルールに従って操作するときは「論理的」と呼ばれる。つまり思考を作るということは、ワードプロセッシングと等価である。
関連項目 